今までの、考察の結果、最終図面は、このようになりました。
ほぼ、間違いないと思いますが、これ以上の事は、アマチュア別子銅山研究家には、無理です。
いつも言っている事ですが、住友という私企業が300年近く運営していた別子銅山です。
なかなか、個人レベルで請求しても、資料は出て来ません。
でも歴史には、事実があります。どこかに、資料は眠っているはずです。
住友資料館あたりに、在ると思いますが、一般の方が目にすることはまず無いでしょう。
私企業ですから、未来にお金になることには、研究費を投入するでしょうが、
閉山(実際は、休山)した過去の資料に研究費を入れることは、無いでしょう。
その中で、一筋の明かりは、末岡照啓先生の、別子銅山の研究かも知れません。
エールを送りたいと思います。
最後になりますが、在野の別子銅山研究家の、Y川氏より写真を頂きました。
ペルトン橋の向こうに、ペルトンの建物が見えます。水圧鉄管も写っています。
明治30年頃の写真の様です。 感激しました。
もう一枚。
明治32年8月28日の、別子大水害の時の写真集から見落としていました。
「第三随道ペルトン空気圧縮場」の写真を見つけました。
上方に、高圧鉄管が見えます。
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ペルトンを、調べてみましたが、私には、これが限界です。
また、新しい事実が分かれば、ここで発表させていただきます、